2'生活の最近のブログ記事

 会社のブログに書いた記事をこちらにも転記します。

 こんにちは。よりよく生きるプロジェクトの矢辺です。

 突然ですが、今日は、この1年活動してきて見えてきた私の夢をお伝えします。

 タイトルで、障害者が"いない"と書きましたが、"いない"というのは、排除するとか、存在させないということではありません。どう表現していいかわかりませんが、"感じない"という感じでしょうか。

 長くなりますがお話します。

 ご存知の方も多いと思うが、私には双子の知的障害のある妹がいる。彼女たちとは今、離れて暮らしているので、会うのは1年に1回、多くても半年に1回程度だ。

 その程度だからかもしれないが、彼女たちに会うといつも驚かされる。何に驚くのか。それは彼女たちの成長だ。

 皆さん、こんばんは。衝撃の事実がわかり、このようにブログを書いております。何が衝撃かというと、日本の障害のある人の数はどれくらいかご存知でしょうか。

 一般的には、約740万人と言われており、障害者白書にも
 身体障害児・者:366万人
 知的障害児・者:55万人
 精神障害児・者:323万人 となっております。

 しかし、厳密にはこの数字だけが障害者数ではないということがわかりました。

障害者とデモ

 2月の中旬くらいだっただろうか。4月からの勤め先であるゼネラルパートナーズでインターン中に拡声器を使ったデモの声が聞こえた。最初は春闘の時期なのかなぁと思い、労働組合のデモだろうと思っていたが、よくよく聞いていると「障害者の?」と言っているのが聞こえた。会社の窓からそのデモが見えたので少し見ていたが、車椅子の人がいたり、聞いたことある団体の旗があった。

 彼らは、「障害者の権利を認めろ?」と言っていたようだが、障害者の権利って何でしょうか?現状、支援費など十分な支援が足りないことは確かにあります。障害をお持ちの方からすると社会に対しての不満は十分にあるのでしょう。

 今日は先ほど5行日記に書きましたように、千葉県市川市にある鐵の家ギャラリー明治倶楽部と神奈川県平塚市にある授産施設工房絵(こうぼうかい)が共同で開催している「kouboukai展」に伺ってきました。

 家に帰ってから、「鐵の家ギャラリー」でぐぐったら、かなり有名な方がデザインしていて、めずらしい(?)スチール製の建物らしく、びっくりしました。不勉強ですね。反省です。

 そして、そもそもなぜこの鐵の家ギャラリーを知ったかというと昨年12月に新聞に載ったのですが、その記事を見て、ご連絡していただいていたのです。出会いってホントにどこにあるかわかりませんね。

 最近、ノーマライゼーションに関するエントリーを書いていないので、ノーマライゼーションについて書こうと思います。

 お題は、「もし、自分が子供を持ったときに障害のある人をどうやって説明するか?」です。

 子供と街を歩いていると、前から車椅子の方、もしくは腕がない方が歩いているかもしれません。そんなとき、子供が

あの人、腕がないよ。

 と言った場合、親としてどういう反応をすればいいのでしょうか?

 大概はもしかしたら、

見ちゃダメ
あの人はかわいそうな人だから近づかないほうがいいよ。

というかもしれません。しかし、それでいいのでしょうか?

 ぼくであれば、どうやって答えるか考えてみました。

 まず、障害があるからといって、全く別の存在ではない。
 障害があり、生活に不自由はあるかも知れないが、かわいそうな存在ではない。

 この2点を子供に知ってもらいたいと思う。ということで、ぼくであれば、子供との対話の中で気づくように促すと思います。

「あの人を見てどう思う?腕がないからと言って、○○(こどもの名前ね♪)と違いはないんだよ。ただ、腕がないことによって、できないことはあるから、その人が困っていて、○○ができることがあったら、積極的に手伝ってあげようね。」

というじゃないかと短い間に思いました。今後考え方に変化はあっても、基本的にはこう言うかなぁと思います。

 そして、もし見ていたら、障害のある人にお願いしたい。障害のある人が街で子供に

あの人、腕がないよ。
 と言われても、胸を張って、堂々といてほしい。実際に、ぼくの知り合いの50歳になるKさんは、片腕を事故で亡くしたが、積極的に活動し、車の運転もされる方ですが、子供に
あの人、腕がないよ。
 と言われても、
おじさん、事故で腕をなくしちゃったんだ。
 と明るく答えると言っていた。全ての人がKさんみたいに障害を乗り越え、明るいわけではないが、Kさんのあり方が本来の姿だと思うのです。

 そして、ぼくの好きな言葉に
 

街に慣れる。街が慣れる。

 という言葉があります。つまり、障害のある人が街へ出ると、街に障害のある人が慣れていき、行動しやすくなります。しかし、一方で障害のある人が街に出ることにより、街の住民も障害のある人の理解が進むのです。

 本当の心のバリアーをなくすためには、ぼくら世代が親になったときに、子供に伝える言葉一つなのかも知れません。積極的に障害のある人も街へ繰り出し、街に慣れ、ぼくらも障害のある人に慣れていく必要があります。そのためには、お互いの歩み寄りが非常に大切だと思っています。そして、子供に障害のある人に対する正しい考え方を伝える。それこそが本当のバリアフリーを実現するのではないでしょうか。


投稿者: やべっち : 2004年11月10日 01:14

コメント

自分も「普通」なんだって言ってはいるものの
やはり 説明とかする時は気を使いますね

どうやったら誤解が無く 伝わるかって・・・

街に慣れる。街が慣れる。
そうなのかもね

変な話、小さい時から障害を持っている方は同情とか差別など
ずっと受けていて 慣れてしまっている人もいる
だから こそ こちらも「○○しちゃ駄目なのかな?」とか怯えずに
誠意を持って接すれば 大丈夫なんだと思いますです

この前、馬場で盲導犬と一緒に歩いている夫婦に
お店の場所を尋ねられた時
昔だったら 「触れないように」とか「わからんし」とか思ったけど
「上手くいくかわからんけど 失礼な事してしまうかもしれんけど 
 伝えよう」と思って やってみたら 上手くいった

いつまでもわからんからと言って何もしないと
ずっと経験値0だけど接すれば接する分だけ
経験が積める

まず接する事からはじめるのが大切な気がしますです

投稿者:ナオたん : 2004年11月10日 12:24

 style-TKさんの「障害を持って働くということ」というエントリーのコメントで素晴らしい議論があったので、Trackbackさせていただきました。

 そこでは、障害者という言葉について、


「身体や精神に障害がある人」ではなく「社会にある障害によって不自由している人」

 と定義付けしようとお話されていました。

 ぼくは前に、「障害者のために」じゃない。というエントリーを書いたことがあります。そこでは、


私達にも『ここまでは「障害」』そして「障害=できない」というイメージがこびりついているのでしょう。そして、このイメージが社会的不利につながっているのです。

 と書きました。「障害者」=「身体や精神に障害があり、できない人間。」と定義付けされていないか?それが、障害のある人の社会参加や理解を促すことができない要因になっているのではないかと思っているのです。

 先日、実家に帰って、思うことを書きます。それは、私の事業にとっての原点であり、やり遂げなければいけないことだと思っています。

 私には、19歳になる双子で知的障害のある妹がいます。彼女達は、今実家の鳥取県米子市で作業所に通っています。先日、初めて妹が通う作業所に見学に行きました。そこでは、作業所で顔が死んだような人がたくさんいて、しかも、暇なのか、仕事がないのか、うろうろその辺を歩いていて仕事をしている職員の邪魔をしては、職員も嫌がっているというような状況でした。

 にこにこKIDSという子育て支援サイトに「おれが昔ガキの頃」という企画でやべっちを紹介していただきました。こちら。これで、やべっちのことが少しはわかるかと。(笑)

 そこにお話させていただいたはた坊さんの取材後記がありました。

 先日、千葉県に行く用事があり、千葉県に行ってきました。なぜ千葉に行ったかというと、障害を持つ子どものご両親のためにちばMDエコネットが千葉県と協働で行なっているノーマライゼーション相談事業のセミナーがありました。そこで、せっかくだったので、Nねっとでもニュースで載せた、千葉県の障害者差別禁止条例についてとあるお母さんに聞いてみました。

 今日は、前々からお知らせしていた通り、四谷中学校に行ってきました。その感想を少し。

 まずは、非常によい活動だと感じました。というのも、自分が小学生、中学生の時なんかは、外部から人が入ってくるというだけで、マンネリ化した授業を楽しくしてくれるものとして、非常に楽しかった思い出がありますが、今は、その外部が地域のNPOなのです。NPOは、非営利だとは言え、きちんとマネジメントされた団体です。それを中学生の段階から接することが出来るというのは、非常に素晴らしいことだと思いました。自分が中学生の頃とは比べ物にならない。(しかし、ここには、地域の大人が子どもを監視できなかったり、教えることが出来ていないという現状もあるのですが。)

先週の金曜日にNPO法人 コミュニケーション・スクエア21(略称CS21)にお伺いしてきました。

お話をすると非常に考えていることやりたいことが似ており、非常にためになったと同時に色々一緒にやっていきましょう!というお話までいただきました。

その中で、CS21さんは、四谷中学校の生徒さんに高齢者体験や車椅子体験をさせて、四谷界隈がどれだけ住み難いかなど発見してもらい、やさしい人間に育てたいということを「総合学習」の時間にやっているようです。

そのまとめの時間として、7月8日に話し合いがあるので、それに参加しませんか?とお話をいただきました 中学校なんて、6年くらい 前に卒業したので、最近の中学生はどんなのか知りたいという思いがあったのと自分がお手伝いできることがあれば、是非お手伝いしたいということで、お願いをしてきました。

 今回はノーマライゼーションとぴったり重なると同時にパワーがでてくる本を見つけたのでご紹介いたします。『天才はなぜ生まれるか』(ちくま書房) を京都大学霊長類研究所の正高信男教授が今春出版しました。

 東京都のとある区の青年学級という知的障害のある方の余暇活動をやっているところにお手伝いで行ってきました。それぞれ4班に分かれ、自分は4班で午前中、買出し、料理、午後はカラオケというスケジュールでした。買出しに行き、料理を作る段階になり、なぜか1人一緒に付いていないといけないという人がいて、ぼくが一緒についてまわっていました。(よく暴れるとか言ってたけど、ぼくと一緒な時は落ち着いてたよ???そんなに暴れる人には見えなかったけどぉ??)

 で、料理を作る段階になり、

 よく巷では、「障害者」「高齢者」のためにという声を聞きますが、それには非常に違和感を感じます。なぜ、私達は「障害者」「健常者」と分けて考えるのでしょうか?


「障害者」が使いやすいものではなく、みんなが使いやすいもの

という発想になぜうつらないのでしょうか?ある人は、

背が高いとか、色が黒いとか、鼻が低いとか、そういうことと同じように、私の足が悪いって事を考えてくれないかなぁ。

と言っていました。

 たまにハンデのある人たちのことを何と呼べばいいんですか?と聞かれることがあるけど、ここでいっぺん「しょうがい」、「しょうがいしゃ」という表記についてまとめたいと思う。

 ぼくは、「障害者」と呼ぶ人がいなくなるためには、自分の障害に気付くことからはじまると思っています。誰でも協力して生きているし、そもそも「障害者」とは、周りの環境や制度、心のバリアーにより、相対的に作り出されたものなのであるという考えがあるからです。

 修さんのBlogに「障害者」という表記の仕方について、議論されていたので、こちらにも書こうと思う。

 個人的な意見ですが、呼び方は、言葉の裏に差別がなければ何でもいいのではないかと思っています。つまり、「障害」という言葉の裏に、「可哀想」などの差別的な意識があるのであれば、それは問題だと思うのですが、「犬」というのと同様に、残念ながら今の社会は「障害」、「障害者」という概念がある社会です。その社会で、一般の人、「障害」に興味のない人に、一体「障害」のある人を説明するときにどのように説明するのでしょうか?

 コムケアの去年の助成金対象団体に最終報告書の作成をしなければならないということで、去年の助成金提供団体のピープルファースト東京が母団体のピープルファースト東久留米というところに取材に行ってきました。

 ピープルファーストは、アメリカで生まれた活動である。1973年に知的障害のある人たちがオレゴンに集まって、どうやって地域で暮らすかについて話し合いがもたれた。このとき、参加者の1人が、


「知恵遅れ」や「障害者」ではなく、「私はまず人間として扱われたい。(ピープル・ファースト)」

と言ったことから、ピープルファーストという名前ができ、それが日本にも拡がり、知的障害のある人が地域で生活できるように支援していくという団体です。

批判です

 今日は、批判を書かせていただきます。新聞記者のノーマライゼーションという考えのなさに辟易です。

朝日新聞は、国土交通省は、障害者や高齢者ら社会的弱者が、IT機器を使って全国各地を不自由なく移動できるシステムの実験を05年度、神戸市をモデルに実施すると、伝えた。

 なぜ、障害者、高齢者が社会的弱者なのか?社会的弱者と書くことによって、障害をもった人と関わったことない人は、「やっぱり障害をもった人は、何もできないのか。」と思ってしまう。新聞社は、真実を伝えるメディアとして意識高く記事を書いていただきたい。刷り込み効果ってやつですな。新聞記者にもノーマライゼーションという考え方がないんだなぁと何だか残念になりました。

 最近ちょっと考えてきた「障害者」という呼び方だけど、自分の中で一通り答えが出たんじゃないかと思うので、それについて書こうと思う。色々なサイトを拝見させていただいたりしたけど、ぼくの結論は、「障害のある人」がいいなと。あまり、ノーマライゼーションが必要な人とかチャレンジドとかいう風な取ってつけたような名前じゃなくて、ストレートでいいんじゃないかと。

 どこかのサイトにも書いてあったけど、「障害者」という言葉を差別の意味を込めて使っていると、その「障害者」という言葉は差別用語になってしまう。しかし、このサイトでは、「障害のある人」というのは、その言葉自体に何の差別もないし、偏見もなければ、意味もない。

 もっと大らかな気持ちで考えればよかったんだなぁと思っています。障害のある人。。。。なんか、ストレートかつ暖か味があるなぁ。。。でも、「障害者」という言葉は使っていきたくないと思っています。その言葉をなくしたいと思ったのが、このサイトができるきっかけであったし。そして、それだけではなく、それぞれが持つ障害も、それに対する認識や受け止め方も人によって異なるので、相手の立場に立って、呼び方を変える事も必要だと思います。

 「知的障害を知ろう」というセミナーに参加しました。非常に資料も揃っており、よいセミナーでした。講師の山本氏は、30年間東京都の福祉センターで知的障害のある人の就労支援を行なっておられました。送り出した生徒の数は、300名以上。その経験から放たれる言葉は、ひしひしとぼくらの心に伝わってきました。

 その中で、伝えておきたいことを書きたいと思います。

「知的障害のある人人は異なったニーズをもつ特別な集団と考えられるべきではなく、その通常の人間的なニーズを充たすのに特別な困難を持つ普通の市民と考えられるべきである」

支援者が「知的障害はこういう傾向がある」と一時的特性を受け止めながら、二次的特性を引き起こさないように支援や配慮の仕方を工夫したり、環境を整えることが必要。二次特性とは、失敗した経験から自信がなくなったりしてしまうことです。

 そして、山本氏に最後に質問をさせていただきました。「心のバリアフリー」を実現させるためにはどうすればいいのでしょうか?答えはこうだった。

「やはり触れ合う体験を持つこと。そして、知的障害のある人はどういうことか知ること。」

ノーマライゼーションねっとでも、自分達が開催するイベント言うことで、「ノーマライゼーションが必要な人とは?」みたいなイベントをすることが必須だと感じました。

電車の中での出来事

 かなり前の出来事です。お昼頃電車に乗っていると、電車の中で電車のドアを叩きながら、奇声を発している人がいました。彼は、耳に補聴器をつけていたし、何かの「障害」をもった人なのでしょう。彼はよほど何かが嫌で、早く電車を降りたかったのでしょう。奇声を発しながら電車のドアを叩いていました。

 電車のドアを叩いている間、電車の中にいた人は、ほとんどがチラッと見て怪訝な表情をして無視を決め込んでいた。もちろんぼくもその中の一人だ。彼は次の駅で降りた。車内はなぜかホッとした雰囲気に包まれた。

 ぼくはノーマライゼーションということに興味があるので、彼は何かが嫌で早く電車を降りたがっていて、ああいう行動になったという事は理解ができた。しかし、ぼくの取った行動は、一般の人が取ったそれと何も変わらない。そこにいたぼく以外の人は、全員ぼくがノーマライゼーションに関心があるなんてわからなかっただろう。

 ぼくはどういう行動を取ればよかったのだろうか?今も答えが出ていない。というか、こんなぼくがノーマライゼーション社会の実現という言葉を言っていていいのか?そういう思いまでしてきています。ぼくはもっと彼に対して何かしてあげることがあったのではないだろうか?周りの人に対して、彼は電車を早く降りたい理由があったと伝えることができたのではないだろうか?

 ぼくの大学の学部に4年生で車椅子で学校に登校している人がいます。ぼくは直接知り合いではないんだけど、車椅子で学校に登校している人はその人しか見たことないし、ちょっとした有名人です。

 で、友達からこんなことを聞いた。「その車椅子の人が企業に就職をしたいけど、『障害者』というくくりで採用されることがむかつくと言っていた。」と。本人とすれば、車椅子に乗っているだけで、他は他の人と何も遜色はない。企業側とすれば、障害者雇用促進法※があって、「障害」をもった人を雇用しなくてはいけない。そうすると、「障害」をもった人は当然「障害者」雇用になってしまう。「障害」をもった人の雇用を促進するための法で、自尊心を傷つけられている人もいる。なんと本末転倒か。そして、その雇用率さえ守られていない現状である。(しかも、障害をもった人を雇用すると給付金も与えられる。おかしな話である。)

 それは何が原因かと考えれば、やはり人間を分けて考えるという観点があり社会的にもその風潮が認められているということでしょう。その風潮をなくしていくために、ぼくらができることというのは、ぼくがいつも言っていますが、まずは「障害者」という言葉をなくしていこう。ということ。

 だから、ぼくは『「障害」のある人』と読んだり、書いたりしています。(それでも、嫌です。)しかし、世の中には、何と「障害者」という言葉が溢れていることか。「障害者」という言葉がなくなったときこそが、その社会風潮がなくなった時だしノーマライゼーション社会の実現だと思います。これを読んでくれた方々は、まずは、日々「障害者」という言葉を極力使わないように意識してほしいと思います。

 ※障害者雇用促進法:「障害」をもった人の雇用を促進するため常用就労者56人以上いる会社の事業者に対し「障害」をもった人の雇用率1.8%を義務付ける法律。現在の実雇用率は1.49%(平成13年度)である。その背景には、未達成企業も納付金という「お金さえ払えば、「障害」をもった人を雇用しなくてもいい」という感覚から抜けないからという会社もあれば、「どう雇えばいいかわからない。」という会社もあれば「その法律自体しらない。」という会社もある。

陥りやすいワナ

 ぼくの友達がBlogでこんなことを言っていました。


私たち健常者は、健常者の観点のみから考えがちである。しかし、障害者の立場から考えたとき、その新たな方向性や利便性を発見することができる。

 この発言はいいことを言っているようだが、非常に陥りやすいワナだと思っています。それは、以下の質問をするとよくわかる。

「障害者」というものの定義はなんですか?「健常者」というものの定義はなんですか?

 「障害者」とは、「ハンディキャップ」を持った人、「健常者」は、「障害者」ではない人という定義をする人もいるかもしれない。でも、目が悪い人はどうでしょうか?これだって、一種の「障害」であって、メガネやコンタクトレンズがあるためにノーマルに生活できます。それと同じように「障害」をもった人にもサービスや支援を行なえば目が悪い人のように生活できるようになるのである。つまり、同じ人間なんだから明確な定義なんてないし、あってはならない。

 ただ、必要なサービスを必要な人に提供すればいいのである。そこに「障害者」という定義付けは必要ない。しかも、法律でも「障害者」という定義付けはされていない。(法律でも定義付けはされていないが、「障害」をもった人に向けた政策等はある。その話はまた今度。)「障害者」、「健常者」という観点からものを考えようとする時点で新しい方向性や利便性なんて見つかりっこない。これが、ぼくが「障害者」という言葉をなくしたい理由であり、もっと考えていかなければいけない問題だと思います。

障害者という呼び方

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル
http://blog.livedoor.jp/kaipapa2shin/archives/136116
 「障害者」という呼び方について、うちのサイトのメンバーともよく話をするんですが、トラックバックさせていただいたBlogの方が「障害者」という言葉についてきれいにまとめて書かれていたのでトラックバックさせていただきました。

 どういう風に彼らを呼ぶのがいいのでしょうか?トラックバックさせていただいたカイパパさんは、チャレンジドという言葉を使っていこうとおっしゃっています。うちのサイトでは、ノーマライゼーションが必要な人と言っているんだけど、それもどうなの?とメンバー間で言っています。

 理想なのは、「障害者」とか「健常者」とか区別がない社会なんだけどやっぱり現状では人に説明するときは、そういう風に区別して説明しないと理解されない現状です。この議論は尽きないんだろうけど、ぼくの思いはやはり「障害者」という言葉をなくすこと。それは、「障害者」と呼ぶ人がいなくなる社会が達成したときこそノーマライゼーション社会の実現だし、「障害者」という言葉をなくすためには心のバリアフリーが必要だという信念があるからです。

 心のバリアフリーをなくすためにこのサイトはあるし、自分達でできることはどんどんやっていこうと思います。(結局いつもそこに行き着くんだよな。)

やべっち@鳥取県米子市です。

実家に帰省しました。今回の帰省は、久しぶりの人に会ったり、
高校の時の同級生に会ったり、スキーしたりとリラックスした時間を
過ごそうと思っています。

今日は、そんな素敵なことを考えながら、素敵な気分で、
実家へ向かう飛行機へ着々と歩みを進めていました。

しかし、飛行機の搭乗の際に、ありえない出来事があったので
皆さんにお伝えすると共に、これを読んでくれた人は必ずこんな大人には
なってほしくないし、こんな心の貧しい子供を育ててほしくないと思います。

羽田空港に到着後、搭乗手続きを済ませ、搭乗口へ進むと飛行機までバスで行く模様。
バスはバス内アナウンスでは約5分。(ってか、5分もない。)
そのバスの中で、ふと気付くとバスの前に、車椅子のマークのついた車を発見した。
(ぼくが乗っていたバスにはスロープ等がなく車椅子はもちろん乗れない。
バリアフリーが浸透しないと、分離、隔離されノーマライゼーションが浸透しないと思います。
この時点で羽田空港のノーマライゼーション度は低いですね。。。。)

そうして、飛行機の横に到着。
バスのアナウンスによると先にバスの前を走っていたその車の車椅子の方が
先に飛行機に乗るので、ぼくらのバスに乗っている人は
その方が乗るために待ってください、とのこと。

そのとき事件が起きた。
ぼくの後ろに乗っていたオヤジが愚痴りだしたのだ。

「ひとりで乗れないなら・・・(バカらしいので省略)」
「早くしろ」etc...

結局、待っていたのは5分くらい。
なぜ、そのオヤジはその時間を待てないのか。
その人が乗ったことによって、出発時間が遅くなるわけでもない。

日本にまだこんなことを考える人間がいるのかと、衝撃を受けたと共に
悲しい気持ちになりました。それまでの素敵な気分を害されました。

このくそオヤジは、自分がその方と同じ「障害」を持つようになったらどう思うのであろうか?
もしくは、絶対自分は同じ状況にならないとでも思っているのであろうか?

これを読んでくれた皆さん。
決してこんな大人にはならないでください。
そして、子供をこんなことしか考えられない大人に育てないでください。

ものがなくても、心の豊かさを。
ものがあっても、心の豊かさを忘れずに。

自己紹介


矢辺卓哉(やべっち)

田舎で農業・電気通信工事士、東京で障害者雇用支援という田舎・東京を行き来する生活をしながら、エネルギーの地産地消、環境負荷の低い・企業だけに頼らない生き方を模索中。株式会社よりよく生きるプロジェクト代表取締役

「人生を味わいつくせる人を増やす」がミッション。

私が考えるノーマライゼーションについて

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