矢辺卓哉とは

1982年8月7日、鳥取県米子市に生まれる。AB型。

曾祖父、祖父、父ともに養子のため、100年ぶりの男が生まれたと大変喜ばれたそう。4人兄弟の長男。下に3人の妹がいる。

  • 幼少時代

家の裏のJRを止める。

幼稚園で走ってきた同級生?とぶつかり、下駄箱の角で頭を打ち、顔に流血するも「映画スターみたいでかっこいい」と言う。

幼稚園では女の子によくいじめられたため、女の子に負けられない男になると誓う。

  • 小学校時代

小学校の低学年で剣道を始める。剣道の先生から「基礎はお皿。お皿が大きくないと技術という料理は盛れない」と言われ、人としてのお皿を大きくしようと決める。小学校6年の時に、じゃんけんで負けてキャプテンになる。この時にキャプテンになったことがその後の人生を決めたと言ってもいい。なお、当時から妙に人に教えたがりだった。

小学校6年生のときにシャンプーをしていて、ふと「自分はなんのために行きているのか・・・」と思う。その答えは出なかったが、せめて自分が生きた証を残したいと思うに至る。幼稚園のいじめの経験からよく女子と殴り合いの喧嘩をしていた。

高学年のときに、音楽一家の友達の影響でギターをはじめる。はじめた理由はモテたいから。

  • 中学校時代

小学校から剣道をやっていたため、剣道同好会へ。進学校の中高一貫校のため、先輩がおらず、中1の終わりに剣道同好会のキャプテンになる。「やるからには一生懸命」な性格から、定期的な練習と部員のモチベーション管理を行い、市の総体で団体戦3位になり、同好会から部に昇格させる。その後、強豪校の1校となり、後輩では全国大会に出た者までいる。実はこの頃が一番輝いていたのではないかという噂があるが、あながち否定できない。

  • 高校時代

剣道を引き続きやっていたが勝てなくなり、先輩もいないし、モチベーションがなくなり、剣道部を辞める。バンドやバイトをやっていたが、校庭でキャッチボールをしていたところ、軟式野球部の監督に声をかけられ、野球が好きだったため、軟式野球部へ。しかもキャプテンになる。ここでも「やるからには一生懸命」な性格から、定期的な練習と部員のモチベーション管理を行い、東中国大会へ出場。その年、全国3位になった岡山県の高校(のちに知ることになる)と対戦。相手の高校は、硬式野球部もあるチームで、途中まで勝っていたが、ブラスバンドの応援もあり、そんな相手と試合したことないし、ブラスバンドで自分たちの声は届かないし、惜しくもコールド負けという結果となる。ブラスバンド、マジ半端ない、マジで。

これまでのキャプテン経験から経営者になりたいと思い、経営学部を目指すようになる。横浜国立大学にいきたいと思っていたが、圧倒的に頭が足りなかったところへ明治大学経営学部の推薦の話をもらう。一浪しても学費が安いので横国に入りたいと親に言うも、「一浪するお金と学費ならそんなに変わらん!来年、横国に受かるかもわからんし」と言われ納得し明治大学へ。明治でよかったと思うのは東京に出てからすぐに実感するようになるのであった。

  • 大学時代

明治大学経営学部へ入学。田舎ではよくわからなかったが、入学すると東京の大学事情が理解できるようになった。入学すぐ教授に、「早稲田のすべり止めで明治に入学したと思うが・・・」という発言から、田舎だと明治大学という名前だけでもスゴいって感じだが、明治と早稲田の間には大きな隔たりがあることを知る。そして、東大、慶応、上智はあきらかに世界が違う。東京に出てすぐ世間の世知辛さを知る。

明治大学は東京のど真ん中で、渋谷、新宿、下北沢などすぐに遊びに行けたが、横国は横浜の山の上で、東京に遊びに行くのに時間がかかることがわかり、心の底から明治でよかったと思った。ありがとう、お母さん。

米子ではイケメンだったと思っていたが、東京で正真正銘のイケメンがいることを知る。こんな自分が戦おうと思ったら、志の大きさしか勝負できないことに気付く。

その頃から、どうせ社会人になるんだったら、新卒入社時点で他の新卒社員と差をつけたいと思うようになり、また将来の経営者の夢に近づくため、ETIC.を通じて大学2年生からインターンシップで週3,4日はベンチャー企業で働く。様々なご迷惑をお掛けしたが今でも交流していただいているのはとても感謝している。ビールの味を覚える。今にまで続く肩こりになる。

ETIC.のイベントを通じて、「社会起業家」という言葉を知る。社会起業家ってカッコイイー!と思う。社会起業家は「自分の周りの問題に気づき、事業を通じて解決する」という定義を知り、自分の周りの問題ってなんだろうと思ったときに、双子の妹に知的障害があることを思い出す。

障害者の問題に興味を持ち出し、調べつつ、知的障害があってもふつうに働ける社会を目指すべく起業を目指す。また、周りの同級生は就活をしていたが、「今まで茶髪だったやつが急に黒髪にしなきゃいけない就活はおかしい」と思い就活せず、起業のため奔走をしていた。

ビジネスプランができず起業は無理か…と思っていた頃、障害者問題で様々なところに顔を出していたつながりで、新卒で入社することになる会社の社長さんを紹介してもらう。

その社長さんに自分の考えを話したところ、「身体障害も受入れられていない社会で、知的障害の問題は早い。まずは身体障害が受け入れられる社会を作るべきだ」と言われ、心底納得し、入社することに。それが決まったのは、なんと大学4年の1月。あと数ヶ月したらニートになるところだった。

そんなこんなで、大学にはあまり行かずなんとか卒業する。今でも大学を卒業できない夢をみる。同じように大学に行ってない友達がかるく単位を取り悠々と卒業した姿を見て、人生やっぱり要領が大事なんだと骨身に染みた。

  • 社会人・新卒時代

ゼネラルパートナーズへ入社。障害者雇用をしたい企業への法人営業、メンバーマネジメント、企画職などを担当。社会人の基礎を作っていただく。営業で売れないものはないというくらいの自信をつけさせてもらった。色々ご迷惑をお掛けしたが、今でも当時の社員の皆さんとつながりもあり、とても感謝している。

リーマンショックで日本企業全体が不景気で業績を落とし、自分の営業成績も振るわなくなった時、世の中には業績を落とさない会社がたくさんあることを知る。どんな環境下でも業績を落とさない会社の共通点は理念経営であることを見抜く。業績のためではなく、あくまで理念の実現のために、ただ拡大を目指すのではなく実直に事業を行なうことこそが、企業経営で大事であることを身にしみて感じる。

リーマンショック後の人員整理のため退職募集があり応募し退職。約6年間在籍させていただいた。

  • 起業へ

退職後すぐに東日本大震災が起こる。会社を辞めていて自宅兼シェアオフィスにいたため出掛けることはなかったが、あの大地震の翌週に会社に向かう人で電車が混んでいた姿をみて日本人って職場がサードプレイスなんだと実感。また、福島原発が爆発し東京に放射能が届くんじゃないかという情報から見えない放射能の恐怖を肌で感じる。

障害者=救済の対象ではなく、障害者であっても幸せな人はいるのであって、本人が不自由を感じていたらそれはすべて障害なのではないかと考えるようになり、障害の有無ではなく、困っている人の問題を解決したいと思うようになる。

そこから、生活や仕事についての悩みに継続的な支援(パーソナルサポーター制度)をする国のモデル事業の就職担当の相談員になる。壮絶な家庭環境、ホームレス、知的障害のボーダーラインなど今まで出会ったことがないような人と出会う。ここでは自分の人間の幅を広げさせてもらった。就職担当なのに今までの自分の知識・経験が役立たないこともあり、相手を評価・ジャッジせず、相手のニーズを素直にまっさらな状態で受け止める必要性を実感した。

また、ゼネラルパートナーズ在籍中に障害者を雇用するだけで、その後のフォローや研修制度がほとんどないこと、障害者の退職が一般の人より多いこと、そして何よりも、障害があっても価値を発揮し、会社に貢献してはじめて一社員として認められる=健常者と障害者が肩を並べられることこそが、障害者のよき認知を広められると考え障害者の退職防止・活躍を目指す事業と困っている人の問題解決の事業で、2011年8月に起業。高校生のときからの夢だった経営者になる。経営者になってみると案外なんてこたないと思う。夢って実現するまでが一番楽しいんだな。

  • 実家へ

事業が鳴かず飛ばず。正月に実家に帰省した際、父親が創業した会社について「会社を継いでほしい」と言われる。電気通信業で全くお門違いだし、将来的には実家に帰ろうと思っていたが、継ぐつもりはなかった。が、今まで大学にも何不自由なく行かせてもらうなど、ものすごく感謝をしていたため事業を継ぐことを了承。また、東日本大震災で感じた放射能の恐怖から日本の電気事情のことを知りたいと思ったことも了承した理由の1つ。

2014年3月にUターンし、ワイズEC株式会社へ入社。

自分の会社はワイズECで正社員をしながら続ける。当初は月1回ペースで東京に行き仕事を続けるもめんどくさくなり、事業を知人へ渡し、2017年4月に会社を精算。

会社を精算して今思うのは、理念経営を強く考えすぎたことが事業が鳴かず飛ばずの理由だったと思う。会社を創業してすぐは理念じゃなくて、いかにお金を稼ぐか、商品ありきではなくお客さんの役に立つ商品を作るくらいの気持ちじゃないとダメなんだなって。次に会社をやる時は、自分は理想に走りがちなので、この点に気をつける。

  • 人生の第2フェーズへ

2021年4月に父親から代替りで、ワイズEC株式会社の代表取締役に就任。会社経営の傍ら、地域コミュニティ(コモンを守り・続けるための中間組織)の再建に貢献するため、昔いた何をしているかよくわからない地域のおじさんになりたいと考えている。

電気については、地元で発電した電気を地元を離れた人に届けることで、地元とのつながりを残し、Uターンのきっかけを作るなど、電気を通じたコミュニティのあり方、新しいエネルギーの地産地消のかたちを作りたい。

また、障害者問題でもそうだけど、就職しないと生活できない(=お金に縛られている)から問題が出る。我々は生きるために働くのであって、働くために生きているのではない。生きれればいいわけだから、企業で働かなくても生きていける手段があれば良い。そのためには、お金と自分の労働価値をつなげず、地域で共感でつながり、自然から豊かさを享受することで、企業に頼らない生き方を作っていきたい。

あとは、子どもの教育にも興味があり、どんな家庭環境・生育歴・障害のある子どもでも自己肯定感を育め、ディスカッションできる力を付ける駄菓子屋を作りたいと考えている。駄菓子屋がミソ。でも、「米子こども大学」という名前も頭の中にあり、何かしたいと企んでいる。

2018年4月に結婚。結婚っていいもんです。この年まで結婚しなかった(できなかった?)のも理由があるんだって思う。

2020年6月 第一子誕生。めちゃくちゃかわいい。生まれてきてくれてありがとう。

2022年5月 第二子誕生。めちゃくちゃかわいい。生まれてきてくれてありがとうパート2。子育ての大変さを骨身に染みて実感中。

今はこんなことを考えて生きています。随時、更新することがあれば更新していきます。

2018年5月3日執筆
2020年6月加筆
2022年11月加筆
2023年3月加筆