アインシュタインもダ・ビンチもエジソンもそうだった! – 天才と障害は表裏一体

 今回はノーマライゼーションとぴったり重なると同時にパワーがでてくる本を見つけたのでご紹介いたします。『天才はなぜ生まれるか』(ちくま書房) を京都大学霊長類研究所の正高信男教授が今春出版しました。

 世界的に「天才」としてたたえられている偉業を成した人々の中に、知的障害と思われるハンディキャップを持つ場合が少なからずある。たとえば、アルバート・アインシュタインは、読み書きと計算が不得手という意味での狭義の学習障害(LD)であったと考えられる。暗算が苦手で、死ぬまで計算間違いに苦しんだ。それにもかかわらず、相対性理論を確立したのである。しかも、独学で。そして、レオナルド・ダ・ビンチにも同様の障害はあった。また、トーマス・エジソンは、いったんあることに注意を向けるや、病的にそれに固執する癖を持っていた節がある。

 この部分から、ある環境で「天才」と呼ばれる人と、またある環境で「障害のある人」と呼ばれるのは実は表裏一体なのではないかと思いました。つまり、「障害」とは周囲の環境からうみだされるものであって、それ自体は障害でもなんでもない、のではないかということです。むしろ、その能力は天才と呼ばれるものかもしれないのです。周囲の環境とは、国というヨコの違いであったり、時代というタテの違いであったりします。文化と言い換えていいのかもしれないですね。

 国というヨコの違いとは、たとえば、こころのバリアフリーが行き届いており、街のバリアフリーがととのっていて車イスをつかう人が自然に街にあふれている国や、障害のある人とない人が分け隔てなく交わる環境がまだまだ少ない日本という国があったりするということです。また、時代の違いとは現代では「天才」と呼ばれている人たちが必ずしも同時代の人には認めてもらえずに、亡くなってあとになってから偉業だと賞賛されるようになったことが少なからずあります。同じ人間という対象であっても、時代や国を、あるいは言葉や地域を越えるとそれは「障害」であったり、時に「天才」であったりという実にあいまいな基準で私たちは「障害」という概念を、あるいは「障害」という言葉をつかっているのかもしれません。

 いずれの人物に関しても、一般的な学校教育による恩恵を全く受けずに大成したという事実。結局のところ、学校は課題を段階的に難しくしていって、「ほら あなたはここまでしかできませんよ」とふるいにかけることしか行っていないのではとすら感じる。少なくとも知的障害を持つ者の劣っている部分を鍛え上げ、「普通」レベルに追いつかせようとするだけで、すぐれた面を伸ばそうとする努力を怠ってきたことには疑う余地がないようだ。

 これは鋭い指摘だと思います。私たちの社会、とりわけ学校に焦点をあてている点です。そのあとの人生に大きく影響を与えうる、価値観をはぐくむ場所としての子どもへの教育に偏りがあったのですね。

 人間には眠っている能力の部分があって、他を代償するために、時として発現するのではないか。それが、結果として他人にはない才能と化す。

 できないことをのばすより、できることをどんどん伸ばしていくほうが、より高い自分自身の成長を見込めるし、それによってまわりの人間にもより大きな力で協力しあえる。今こそ、そういった今までの教育、そして社会の矛盾の方向転換をすべきときであると強く感じます。

参考資料:読売新聞 2004年6月21日付 「真の『頭の良さ』とは何か」

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