「永遠の0」は、戦争映画ではなく、恩送りの映画だと思う

永遠の0を改めて観た。

いろいろご批判はあるようですし、私自身も作者は好きじゃないけど、好きな映画。

戦争映画というよりも、恩送りの映画だと思う。

もし何かしらの事情で自分が家族を守れなくなった時、家族を守ってくれる人を作れる(独善的ではなく、人の想いをつなぐ、恩をつなげる)生き方を問うことが主題の映画だと思っている。

そもそも主人公が特攻で死ななければならなかった日本の戦争戦略はおかしな話だし、その点を批判することなく、個人の生き方に矮小化することは、確かに戦争賛美と捉えられてもしょうがないと思う。

だけれども、ただ個人の生き方として、とても素晴らしい表現をしている映画だと思う。自分もこういう生き方がしたいと思う。

ということで、永遠の0は戦争映画ではないと思う。個人の生き方の映画として観ることが大事じゃないかと思います。

真実の愛ってなんだ?真実の愛の考え方は男女の恋愛だけじゃないんだな。

マレフィセントを観た。

眠れる森の美女で呪いをかけた魔女の物語。

彼女も呪いをかけざるを得なかった過去があった。

誰しも、表もあれば裏もある。

真実の愛は男女の恋愛ではなく、相手を思う心なんだな。
アナ雪といい、最近はこういう映画が多いね。良いことです。

生みの親が子どもを育てられなくなった時の代替案が世の中に少ないのではないだろうか – チョコレートドーナッツを観て

やっとチョコレートドーナッツ観た。

ゲイカップルがダウン症の子どもを育てようとするストーリー。

ゲイカップルの愛のある家庭で育つ子どもと薬物中毒の母親の元で育つ子ども。どちらが子どもにとって有益かは誰の目にも明らか。しかし、ゲイカップルという偏見や生みの母親が優先されるという法律がそれを許さない。

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ぼくが集団的自衛権に反対の理由〜戦うって古いです〜

 ぼくは集団的自衛権に反対です。理由は、「戦う」という考えが古いと思うからです。

 戦おうとすれば、相手も武器を用意します。その繰り返しがこれまでの世界大戦だったのではないでしょうか。戦争の最大の抑止力は「軍事力」ではなく、「交流」だと思います。

 相手を知り、尊重する。

 奪うのではなく分け合う。

 それこそが最大の戦争の抑止力ではないでしょうか。なぜならば、それが人間の本当のあるべき姿だからです。

 こういうことを言うと、「他の国が日本に攻め込んできて無様にやられていいのか」という人がいます。ぼくはそれでいいです。人を殺して自分が生き残る可能性を求めるよりは、自分が死ぬことで、相手が人間のあるべき姿に気付くことを期待したい。

 いや、気付かなくてもいい。自分が人間としてのあるべき姿をなくすくらいなら、死んだほうがましです。

 相手を知らずに否定する。

 分け合うのではなく奪う。

 戦ってやっつける。

 人を殺して自分が生きる。

 人間のあるべき姿として、集団的自衛権はおかしいと思う。だから、ぼくは集団的自衛権に反対です。

電力自由化の未来〜電気も地産地消する地域を作りたい〜

 先日、2016年から一般家庭でも電力会社を選べるようになることが決まりました。

 電力自由化は改革の出発点だ(日経新聞)
 http://www.nikkei.com/article/DGXDZO72767100V10C14A6PE8000/

 このニュースを踏まえ、微力ながら電気工事業に携わる人間として、これからの電力インフラについて、自分なりに考えたあり方をお伝えしたい。

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