昨日は、障害者政策研究全国集会に行ってきました。今後、障害者差別禁止法ができれば、自分が考える障害者雇用の実情も変わるかもしれないし、我々のビジネスにも影響してくるでしょう。そのような潮流を感じたいと思い、参加してみました。
そもそもの会の趣旨は、次の通りと認識しています。違ったらご指摘下さい。
「障害者権利条約というのが、国連で採択されており、日本でも障害者差別禁止法ができることを期待されている。そんな状況の中、今年夏、政権交代が実現し、民主党は障害者制度改革推進法の制定を打ち出している。以上の点を踏まえて、これからの障害者政策のあり方を議論する。」
参加してみたものの、実は、もともとこういう会は好きではないが、やっぱり好きにはなれなかった。理由は、障害者と健常者の対立構造が見て取れるからです。
「障害者と健常者の対立構造」とは何かというと、「障害者は認められていない」「障害者は権利を認められるべき存在で、助けられるべき存在である」という主張にみえる、健常者との違いに対する対抗意識です。
障害のある方は今のこのご時世でも、介護問題や障害者自立支援法などさまざまな問題があり、行き難い現状があるのでしょう。自分の存在意義を感じられず、権利が認められていないと感じることもあるのでしょう。その気持ちは痛いほどわかります。
しかし、「障害者の権利を認めてほしい」ということは、「自分たちと普通の人は違う」という大前提があるのではないでしょうか。自分たちは特別なニーズを持った存在であり、救われるべき存在である、と。
本当にそうでしょうか?障害者は普通の人とは違い、権利を認められるべき存在なのでしょうか?
私は違うと思います。権利はもともとあるのです。なぜならば、障害があっても人間だからです。それでは今のままでいいのか。もちろん違います。私が考える問題の本質は、1人の人間として、障害のある人が存在意義を感じられていないことではないかと考えます。
人は誰しも、愛され、ほめられ、役に立ち、必要とされることで自分の存在意義を感じます。しかし、日本では、障害のある方は、それらがなかなか感じられないのではないでしょうか。
しかし、一方で、「1人の人間として存在意義を感じる」という視点で考えると、今の日本においては、これは何も障害のある人だけの問題ではありません。日本では、自殺する人は、交通事故で亡くなる人よりも多い世の中です。ニートやホームレス、学習障害や手帳の取れないボーダーラインと呼ばれる方、難病の方、権利を主張したい人は残念ながら今の日本にはたくさんいらっしゃるし、問題が山積みなのです。そんな中で、障害のある人が権利を主張しても、「俺だって権利ほしいよ」と思う健常者だって多いでしょう。
であれば、私はこう考えます。障害者、健常者関係なく、誰しもが自分の存在意義を感じられるにはどうしたらいいだろうか?誰しもが自分が生きる意味を感じられる日本を実現するにはどうしたらいいか?と。
「誰しもが自分の存在意義を感じられる日本にするためには?」であれば、誰もが問題意識を持ちやすくなります。このような視点で、障害者が存在意義を感じられていない問題を提起するのです。そうすれば、共感されやすくなり、日本に住むどんな人でも、障害者問題の議論に参加できるようになります。私は障害者の問題はこのような論点から議論されるべきだと考えています。
つまり、「自分の存在意義を感じられる日本にする」ために、障害のある方の問題はそのうちの1つなのです。「障害者の権利を認めよ」と障害者の立場から発言しても、残念ながら共感できない人は共感できないのです。だって、なったこともないしわからないから。このような自分視点から現在の障害者の問題を論じても、障害者同士では共感できても、日本人中には共感されません。
だからこそ、「健常者」vs「障害者」という対立視点から抜け出し、「権利を認めてほしい」という自分の立場をいったん離れて、もっと大きな日本という視点から物事を捉えてみる必要があるのです。(そもそも日本人はこのような考え方が得意ではないようですが)
「自分の存在意義を感じられる日本にする」そんな視点から障害者も健常者もいろんな人も議論をすることが、きっと誰しもが住みがいのある日本を作り出すのではないでしょうか。そして、障害のある人もきっとそんな世の中を実現したいと思っていると信じていますし、私もそのような世の中、日本を作る存在でありたいと常々思っています。
追伸:
もちろん、今回の障害者基本法改定への提言などは素晴らしく、ぜひ進めていただきたいと思っている。問題は内容ではなく、議論の視点を指摘しているつもりです。