人の命は儚く脆い。だから私は与えられた命を使い切る。

 今日は私が2回目に産まれた日だ。今のこの気持ち、思いを忘れないために、ここに記しておく。

 8月21日23時23分。携帯電話が鳴った。相手は会社の同僚からだった。彼は電話口で気丈に振舞いながらこう言った。

 「嫁が切迫流産の可能性があり、ICUに入った。これから帝王切開する。」

 私はとっさのことに、なんて言っていいかわからず、「何もできないかもしれませんが、がんばってください」と言って電話を切った気がする。

 電話をくれた同僚は、何個も年上だが、仕事の考え方、価値観が似ていて、一緒に仕事をしていて、信頼でき、頼れる存在だ。私が理想を語ると、彼は私の理想を理解し、それを現実とすり合わせして、誰からも受け入れられやすいように修正してくれる。そんな彼であるから、これから新しいことをやろうと、今日も5時間打ち合わせをしていた仲間である。

 そんな彼から子供ができたと聞いたのはたしか3月だったか。そのときは、自分のことのように嬉しかったし、近所の水天宮のお守りをお渡しした。しかし、11月に産まれると聞いていたが、あまりにも突然、彼の状況が一変した。

 私は電話を切った後、水天宮に行って、お祈りしてこようと考えた。水天宮のお守りを渡した私にできることはこれくらいしかない。

 水天宮の周りは、蝉が鳴いていた。まだ残暑厳しい夏の夜なんだ。中国人の家族連れは、RoyalParkHotelに向かって、楽しそうに歩いていた。あるカップルはTaxiから水天宮の交差点で降りて、千鳥足で歩いていった。そんな中、私は水天宮の周りを歩いていた。

 歩きながら、同僚のことを考えていた。今どんな気持ちなんだろうか。障害のある人を支援する立場として、自分の子供が障害が残る可能性がある。彼の気持ち、状況を考えると、自分がこれからやろうとしていることは、本当に必要なこと、実現しなくてはいけないと心底思った。

 私には、彼の気持ちを考えると、「できない」という選択肢を残してはいけない。「必ずやる」という選択肢しか残さない。「絶対にやる」という覚悟が歩きながらできた。

 そして、なんと人の命とは、こんなに儚いのだろうか。脆いのだろうか。次は、そんな気持ちが頭の中をぐるぐる巡った。

 人は誰でも死ぬ。そのタイミングが、人によって違う。しかし、今大事な人の子供の命がどうなるかわからない。その事実を突きつけられた今。

 私が生を受けている事はなんと素晴らしいことなのだろうか。

 歩きながら、涙がこぼれた。

 明日も生きたくても、生きられない人がいる。

 歩きながら、涙を拭いた。

 であるならば、この素晴らしい生を与えてくれた人に感謝を表すため、明日も生きたかった人の期待に応えるために、私にできることは何だろうか。

 それは、私に与えていただいた命を使い切ることなのではないだろうか。その命は、いつ灯火が消えるかわからない。しかし、命という灯火がともっている限り、私は自分の命を使い切りたい。

 それが、私に生を与えてくれた人に感謝を表すことであり、明日も生きたかった人の期待に応えるために、私にできることだ。

 今日は私が2回目に産まれた日だ。

 今日のことを忘れず、心の中には確固たる信念を持ち、笑顔でまい進する。

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