就職難の時代から労働受難の時代へ

 先ほどTwitterでこのようにつぶやきました。

前職で人事制度に関わった時に、労働法は「雇用主と搾取される労働者」構図が前提に作られている違和感があった。確かに歴史はそうだった。しかし、今も脈々と雇用主と労働者にこの考え方が形成されるのは問題。これからは雇用主と労働者が一緒に良いものを作る姿勢が大切。改めて労働法を調べてみる。

 そもそもなぜこのように行き着いたか。前提条件が抜けていると思うので、つぶやいた流れで思うがままに書いてみたい。

 現在、失業率が高く、なかなか働けないという声を聞ききます。確かにそうでしょう。企業が人材を選抜しているため、就職活動をしても、そう簡単に内定が出るものではありません。そして、新卒のレールに乗れないと、正社員の道が閉ざされるというのは、よく聞く話です。

 しかし、一方で、働いている人も楽しそうに働いていない、メンタル面の不調になる人も私の知人でも、過去に経験した人を合わせると両手を超える数になります。また、私が相談対応している方で、生活保護を受けていて働いていない人は、「一生この暮らしが続けばいい」と言っている。

 そして、障害のある人も福祉のお世話になることが当然と考えていたり、支援者がそのように考えてしまうケースもあります。

 私は、これまで「労働」「働く」ということを通じて、社会に接してきたのだが、どうしても、今日本における「労働」「働く」と言うことが、就職難つまり「働けない」ではなく、労働受難つまり「働くことが苦しい」であると思わざるを得ません。

 そう考えるのは、もし仮に働くことが楽しければ、日本の経済はここまで落ち込まないはずだからです。労働が社会を支え、消費を作り出します。働くことが苦しいからこそ、この日本経済が問題なのではないかと思うのです。

 前回のエントリーで、昭和の価値観では、納税のために働いていたのでは?と書きました。それは、社会全体が戦後の復興を目指し、アメリカに追いつけ追い越せだったからです。働けば豊かになれると、全労働者のコンセンサスが取れていたのです。

 しかし、今は残念ながら、戦後ではありません。なぜ、人は「働くことは苦しい」と思ってしまうのか。その答えの1つに、労働法があるのではないかと考えました。

 産業革命以後、工業化が進み、雇う側と雇われる側ができました。つまり、強者と弱者です。その弱者を守るために整備されてきたのが、労働法です。

 つまり、労働法そのものが、搾取される(=苦しいこと)側である、弱者を守る法であり、その法から今の「労働」を捉えるため、事業主や労働者に、「仕事=苦痛」という意識を植え付けてしまうのではないかと考えたのです。

 自然と、強者と弱者。労働は苦痛である。ということを法で定められてしまっては、今の時代のように、アメリカにそこそこ追いついてしまい、政治家もリーダーシップを取れないような、目指すものがない社会においては、労働は苦痛にしかなりません。法でそのように定義されてしまっているからです。

 私は、これからの時代に大切なことは、事業主と労働者が一緒によりよくなろう、よりよいものを作ろうという姿勢だと考えています。そのためには、自然と強者と弱者、仕事は苦痛であるという認識を作り出してしまう生産マシーンの電源を切る必要があります。その生産マシーンこそが労働法であると思いついたのです。

 ということで、これまではあくまで仮説なので、正しいかわかりませんが、労働法(正しくは、労働基準法、労働組合法、労働関係調整法みたいですね)を調べてみて、仮説を検証してみたいと思います。

 「働く」とは、「はた」を「らく」にすること。働く全ての人が、傍を楽にできるような労働を取り戻せるよう少しでも貢献していきたいと思います。

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