ここ数ヶ月、司馬遼太郎著「坂の上の雲」を読んだ。明治人の気質と官僚政治の腐敗からロシアの敗戦から太平洋戦争への伏線が書かれていて非常に興味深かった。それと共に、明治人の滑稽なまでの楽観主義がまぶしかった。それはこの一文に集約されている。
明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
この本を読む限りでは、明治人の多くは、もちろん様々な悩みがあったとは思うが、嫉妬してしまうほど、全般的には楽観的であり、底抜けに前向きである。
その後の昭和という時代も経済成長を遂げ、欧米に追いつけ追い越せで正しかったかどうかは別として、その世代の人達には、「白い雲」がみえていたのかもしれない。
では、平成の時代を生きる我々にとっての「白い雲」とは何か。そして、それはどこで手に入るのか。そんなことを書いてみたい。
明治から昭和という時代は、社会的にその「白い雲」があった。また、すぐ目を横にすれば「白い雲」を見つけることができた。それは、経済成長であり、新しい国の勃興であった。若いうちに我慢をすれば将来は安泰であっただろうし、「白い雲」を見つめ、坂をのぼっていけば我慢も我慢と思わなかっただろう。
しかし、今、日本は閉塞感が満載であるそうだ。一定以上の教育を受けることができ、ある程度の根気と気力さえあれば、どんな職業に就く権利を持つことができるし、一定以上の文明を持ち、仕事がない=死に直結する社会でもないにも関わらず。
ホリエモンは常々そのような発言をするし、日々明るく過ごしている知人でさえ、詳しく話を聞くと「生きづらい」と言う。私は日々生活に問題を抱える人の話を聞くが、彼らもやはり何かしらの生きづらさを感じているようだ。
それでは、私たち世代には「白い雲」はもうどこにもないのだろうか。明治人が感じたあの高揚感を我々は感じることはできないのだろうか。
私は、その答えを「個」に導きたいと思う。
今までの「白い雲」は、明治維新であり、経済成長であり、あくまで社会がもたらしたものであった。だからこそ、誰もが高揚感を自然と感じることができたのだろう。しかし、今は社会が複雑化し、多様化した。国民全ての人に対し、同じコンセンサスを得て、高揚感を感じることは不可能だろう。
であるならば、私は「個」にフォーカスをしたい。社会に「白い雲」を求めるのではなく、自分の中の「白い雲」に気付き、見つけ、のぼっていく。
「社会がどうだから」ではなく、個人個人が自分の「白い雲」を持ち、その「白い雲」をのぼろうとする。
社会はその個人の「白い雲」を最大限バックアップし、その人なりの「白い雲」を追いかけていくことができる。そのような社会がこれからの理想の社会なのではないかと思う。
それを通じて、「個」がしっかりとした足で自らで立つこと。それが日本と言う国が自信を持ち、誇りを取り戻せる一つの方法なのではないでしょうか。
私はそのような支援を行いたいと、今心の底から思いますし、今の仕事もここにつながっていると思います。