韓国に行ってきた。
行く前は、周りの人に「大丈夫か?」と言われたけど、大丈夫だった。
韓国に行くと言った瞬間に、確実に「大丈夫か」と聞かれることについて、ずっと違和感があったのだけど、このブログを読んでスッキリした。
隣国に喧嘩を売るというのは、長いスパンで考えると有害無益のふるまいだが、短期的に見ると政権支持率が一時的に回復する。だから、たとえ国益を損なっても、政治的延命を図りたい政治家がそうするのは冷徹なマキャヴェリズムの論理的帰結である。そこには一抹の論理性がないではない。
だが、その尻馬に乗ってぺらぺら語り出される嫌韓言説には、そのような論理性がない。けれども、嫌韓言説をドライブしているのは、それほど「シニカル」で計算高い思考ではない。
もっと見苦しく、薄汚い心性である。
彼らが「嫌韓」という看板を借りて口にしているのは、先ほど言った通り、「職を賭してまで言いたいというほどのことではないが、職を賭さないで済むなら、ちょっと言ってみたいこと」である。ふつうなら「非常識」で「下劣」で「見苦しい」とされるふるまいが、どうも今の言論環境では政府からもメディアからも司法からも公認されているらしい。だったら、この機会に自分にもそれを許してみよう。「処罰されない」なら・・・と期待して、精一杯下品で攻撃的になってみせたのである。
他国に喧嘩を売ることは理由があるから理解はできる(正しいとは思わない)が、その論調に乗っかって、マスコミが職業を賭して言いたいことでもないことに、我々は踊らされているのである。
実際に韓国では何もなかった。もちろん、何かあったけど、自分が気づかなかっただけかもしれない。
また、確かに嫌日の韓国人は増えているのかもしれない。たまたま出会わなかっただけかもしれない。
それでも、思う。
国やマスコミがちょっと騒いだだけで人の本質は変わらない。
だからこそ、誰かを忌み嫌う報道に惑わされたり、心を動かされないこと。誰かを忌み嫌う報道には国民感情を優先した考えはない。
だから、韓国行くよ→大丈夫か?というお決まり文句に違和感があったんだな。
あ〜すっきりした。