子どもの話

今日、子どもの幼稚園の発表会があった。

ずっと横を向き、正面を向いたサービスショットはなし笑

我が子は、隣で泣いている子が気になったのかずっと横を向いていた。

家では大ハッスルをして、名前を呼べば返事をするし、音楽をかければ踊り出す我が子が、名前を呼ばれても、手をあげたり、「はーい」と言うこともなく、全く踊ることもなく、発表会が終わった。

そんな我が子の様子を見て、私はとても安心した。

他の子どもは名前を呼ばれて「はーい」と行ったり、音楽に合わせて踊っている子どももいたにも関わらず。

それが最初は言葉では説明できなかったが、この動画を見て言語化できた。

日本の「大人になる」とは、周りを参照し、空気を読み、周りと合わせられるようになることだということが、大人になること。

じゃあ、日本において、自由な人間とは、空気を読まない、あるいは読めない人である。

これは、東京でよく感じたことで、発達障害的な目線で言うところの空気が読めない企業で生きていけない人が起業して成功している姿をよく見た。私はその姿をみながら、自分が相手に合わせて、空気を読む部分を多分に感じていたため、この人たちには勝てないなーと感じていた。ある種の自分のノーマルさを突きつけられたというか。

また、障害者支援をしているときも感じていたことだが、発達障害認定をされる境界線は、社会に溶け込めるか・溶け込めないか。

ADHDが強くても、周りが面白いやつだと包摂されれば、障害ではないし、周りから迷惑なやつだと思えば、発達障害認定される。

つまり、環境によって発達障害であるかどうかが決まる。そして、発達障害認定が増えたということは、日本社会の劣化(表層的なノイズに弱くなり不寛容になった)ということになるのであろう。

ここからの方法論は2つで、他の人ができることで、できないことがあることを問題視し合理的配慮をする不寛容な集団に合理的配慮を求めるかそのような集団から離れるチャレンジをするか。

子どもがもし集団に馴染めなかったとしても、集団から離れるチャレンジを応援したい。もしくは、大人として他の人ができないことを包括できる組織を見つけ出すか作るかである。

企業を運営するものとしては、他の人ができないことを包括できる組織を見つけ出すか作ることを改めて目指したいと思った。デコとボコが補い合う関係を作りたい。

我が子よ!引き続き、空気を読むな!周りが踊っているから自分も踊ろうと周りに合わせようとするな。どんな状況でも自分がやりたいこと、正しいと思うこと、自分が思うように生きろ!

できないことを沢山持っていることが才能である。お父さんはできることを増やそうとしてきた平凡な人間だ。お父さんの過ちを繰り返してはいけない。

それでもし、集団から排除されるようなことがあれば、そんな成熟度の低い劣化した集団はこちらから願い下げである。そして、お父さんができないことを包括できる組織を見つけるか作るよ。

安心して、引き続き、一生懸命のびのびと生きていこうぜ!

追伸1:

「危険だから行かない方がいいよ」「え?だったらおれは行くぜ」みたいな奴がある程度いるからその集団が残ってきた。横並びに安心する、劣化した若い人たちにあってはものすごく大事にしなければならない特性。

自分は、「え?だったらおれは行くぜ」という人間だった。しかし、今の仕事は事故を起こしてはいけないから「危険だから行かない方がいいよ」が重要視される。

「危険だから行かない方がいいよ」の人間だけでは、動画内であったように組織は生存できない。なので、「危険だから行かない方がいいよ」と「え?だったらおれは行くぜ」との関係性をもう少し明らかにして、社員のメンタリティとしてどうあるべきかは考えたい。

追伸2:

日本は、子供は楽園を生きていて、大人になると楽園を捨てて、世間・法・しがらみを参照して、分相応に生きるのが大人になること。

欧米は、子供は不完全な大人であると認識されているために、しっかり躾をしなければいけない。躾における親の権威が重要視される。

だから、日本人の子どもは大人になりたくない、欧米の子どもは早く大人になりたいと言うこともが多い。欧米において大人になるということは、不完全ではない大人になるということだから、自由に自律的に生きることを意味している。

私も早く大人になりたい子どもだった。子どもにも早く大人になりたいと思ってもらえるように育てていきたい。大人になることは楽しいことだぞ!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)