よく巷では、「障害者」「高齢者」のためにという声を聞きますが、それには非常に違和感を感じます。なぜ、私達は「障害者」「健常者」と分けて考えるのでしょうか?
「障害者」が使いやすいものではなく、みんなが使いやすいもの
という発想になぜうつらないのでしょうか?ある人は、
背が高いとか、色が黒いとか、鼻が低いとか、そういうことと同じように、私の足が悪いって事を考えてくれないかなぁ。
と言っていました。
今の日本は『ここまでが「障害」』そして「障害=できない」というイメージができてしまっている気がします。その一端を担っているのが、今の日本の「障害者」手帳制度ではないのでしょうか?この「障害者」手帳制度ですが、実際に障害のある方の支援という点に関しては必要であることは、否めません。というか、必須なものです。
しかし、やり方が間違っていると思うのです。WHO(世界保健機構)は、障害を国際障害分類で
impairment:機能障害(ex:下半身マヒなど)
disability:能力障害(ex:下半身マヒのため歩けないなど)
handicap:社会的不利
と定義しています。
この国際障害分類で大切なのは、3番目の社会的不利という視点です。この社会的不利は機能障害や能力障害が同程度であっても、その人が暮らしている社会の状況によって大きく変わってしまいます。例えば、同じ車椅子利用でも、環境の整った欧米で暮らしているのか、狭い家屋、段差の多い日本で生活しているのかで行動や社会的役割は変わってきます。また、環境という物理的条件だけでなく、差別や偏見などその社会の意識によっても社会的不利には多くの違いが生じます。能力障害は、歩けない場合は、車椅子に載るなどである程度軽減されます。しかし、この社会的不利はなかなか軽減できないものです。
そして、日本の「障害者」手帳制度がこの社会的不利という視点で考えられているのではなく、機能障害、能力障害という視点で考えられているから問題なのです。つまり、機能障害や能力障害は何ができないのか?という視点にあり、その視点に「障害者」手帳制度があるために、私達にも『ここまでは「障害」』そして「障害=できない」というイメージがこびりついているのでしょう。そして、このイメージが社会的不利につながっているのです。
スウェーデンの障害の定義は、その社会的不利が重視された概念となっており、階段を昇り降りするのが大変なお年寄りや妊婦さんなども障害があると判断されます。そして、「支援を必要としている人に、いつでも必要な支援を提供する」という考え方が徹底されているのです。こんな考え方が、徹底されれば「障害者」「健常者」という考えもなくなります。そして「障害者のために」なんて嘘っぱちのような考え方もなくなる気がします。そして、この社会的不利という視点を皆で共有し、誰しもが何かしら社会的不利を被っているし、誰しも障害者であるという認識をもち、誰もが使いやすい、誰もが住みやすい社会の実現が行なわれるといいなぁと思います。
ところで、よくこんな話をしているとある友達から以下のメールをもらいました。
ハンディを持った人たちを蔑むのでもなく、かといって特別視もしない。ともに今を生きる者として人生を一緒に楽しもうよ、精一杯がんばろうよというのが、やべちゃんのスタイルであり、ノーマライゼーションなのかなと感じました。
本当にやべっちのノーマライゼーションを言い換えると、この言葉で言い換えることができる気がします。「障害者のために」じゃない、みんなのために。と思っています。
“「障害者のために」じゃない。” への1件の返信