style-TKさんの「障害を持って働くということ」というエントリーのコメントで素晴らしい議論があったので、Trackbackさせていただきました。
そこでは、障害者という言葉について、
「身体や精神に障害がある人」ではなく「社会にある障害によって不自由している人」
と定義付けしようとお話されていました。
ぼくは前に、「障害者のために」じゃない。というエントリーを書いたことがあります。そこでは、
私達にも『ここまでは「障害」』そして「障害=できない」というイメージがこびりついているのでしょう。そして、このイメージが社会的不利につながっているのです。
と書きました。「障害者」=「身体や精神に障害があり、できない人間。」と定義付けされていないか?それが、障害のある人の社会参加や理解を促すことができない要因になっているのではないかと思っているのです。
障害があっても、社会に参加している人は多数います。ユニクロでも活躍しています。ココファームというワインメーカーで働く自閉症、知的障害のある人たちが作ったワインが2000年九州沖縄サミットの各国首脳などが出席する公式晩餐会で使用されました。ぼくが知らないところでも大活躍している知的障害のある人たちがもっといっぱいいらっしゃることでしょう。
つまり、障害があっても、周りの適切な支援や援助があれば、活躍することが可能なのです。それを「障害者」という顔の見えないひとくくりにし、「障害者=できない人」と排除している社会で生活する障害のある人は、
「社会にある障害によって不自由している人」
以外の何者でもないのではないのでしょうか?そして、障害のある人に使いやすいものは、障害のない人にも使いやすいものなのです。
例えば、シャンプーの横の刻み。目の見えない人たちにとっては、シャンプーだと判断するものですが、頭を洗って、目を明けることのできないとき、便利ではないでしょうか。段差や階段が少ない道。車いすや足の悪い人だけではなく、重い荷物持って歩くとき、ありがたくないでしょうか。
「障害者のために」じゃない。というエントリーでは、
スウェーデンの障害の定義は、その社会的不利が重視された概念となっており、階段を昇り降りするのが大変なお年寄りや妊婦さんなども障害があると判断されます。そして、「支援を必要としている人に、いつでも必要な支援を提供する」という考え方が徹底されているのです。
と書きました。ヘレン・ケラーは言っています。
障害は不自由であるが、不幸ではない。障害を不幸にしているのは、社会である。
もう「障害者=できない人」とかやめませんか。もし、「障害者」がいるのであれば、その人に適切な支援、援助を行ない、社会の障害から開放しましょう。それによって、障害の有無で判断するのではなく、その人が何ができるのか、それに注目し、それを伸ばしていく社会なることができます。
それこそが、福祉に使われる税金(作業所に1ヵ月通うだけで1人16万円掛かるらしいです。)を減らし、医療費を削減し、その他の税金に有意義に使うことを可能にします。日本はまだ、障害のある人の能力を発揮できているとは言えません。
「ノーマライゼーション=自立した生活が送れること」だとぼくは考えています。誰しもが自立した生活が送れるようにひとりずつ、自分なりにできることをやっていきたいですね。「障害者」と呼ぶ人がいなくなる社会を実現したいと思っています。