陥りやすいワナ

 ぼくの友達がBlogでこんなことを言っていました。

私たち健常者は、健常者の観点のみから考えがちである。しかし、障害者の立場から考えたとき、その新たな方向性や利便性を発見することができる。

 この発言はいいことを言っているようだが、非常に陥りやすいワナだと思っています。それは、以下の質問をするとよくわかる。

「障害者」というものの定義はなんですか?「健常者」というものの定義はなんですか?

 「障害者」とは、「ハンディキャップ」を持った人、「健常者」は、「障害者」ではない人という定義をする人もいるかもしれない。でも、目が悪い人はどうでしょうか?これだって、一種の「障害」であって、メガネやコンタクトレンズがあるためにノーマルに生活できます。それと同じように「障害」をもった人にもサービスや支援を行なえば目が悪い人のように生活できるようになるのである。つまり、同じ人間なんだから明確な定義なんてないし、あってはならない。

 ただ、必要なサービスを必要な人に提供すればいいのである。そこに「障害者」という定義付けは必要ない。しかも、法律でも「障害者」という定義付けはされていない。(法律でも定義付けはされていないが、「障害」をもった人に向けた政策等はある。その話はまた今度。)「障害者」、「健常者」という観点からものを考えようとする時点で新しい方向性や利便性なんて見つかりっこない。これが、ぼくが「障害者」という言葉をなくしたい理由であり、もっと考えていかなければいけない問題だと思います。

障害者という呼び方

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル
http://blog.livedoor.jp/kaipapa2shin/archives/136116
 「障害者」という呼び方について、うちのサイトのメンバーともよく話をするんですが、トラックバックさせていただいたBlogの方が「障害者」という言葉についてきれいにまとめて書かれていたのでトラックバックさせていただきました。

 どういう風に彼らを呼ぶのがいいのでしょうか?トラックバックさせていただいたカイパパさんは、チャレンジドという言葉を使っていこうとおっしゃっています。うちのサイトでは、ノーマライゼーションが必要な人と言っているんだけど、それもどうなの?とメンバー間で言っています。

 理想なのは、「障害者」とか「健常者」とか区別がない社会なんだけどやっぱり現状では人に説明するときは、そういう風に区別して説明しないと理解されない現状です。この議論は尽きないんだろうけど、ぼくの思いはやはり「障害者」という言葉をなくすこと。それは、「障害者」と呼ぶ人がいなくなる社会が達成したときこそノーマライゼーション社会の実現だし、「障害者」という言葉をなくすためには心のバリアフリーが必要だという信念があるからです。

 心のバリアフリーをなくすためにこのサイトはあるし、自分達でできることはどんどんやっていこうと思います。(結局いつもそこに行き着くんだよな。)

ものの豊かさよりも心の豊かさを 〜ノーマライゼーションの実現〜

やべっち@鳥取県米子市です。
実家に帰省しました。今回の帰省は、久しぶりの人に会ったり、
高校の時の同級生に会ったり、スキーしたりとリラックスした時間を
過ごそうと思っています。
今日は、そんな素敵なことを考えながら、素敵な気分で、
実家へ向かう飛行機へ着々と歩みを進めていました。
しかし、飛行機の搭乗の際に、ありえない出来事があったので
皆さんにお伝えすると共に、これを読んでくれた人は必ずこんな大人には
なってほしくないし、こんな心の貧しい子供を育ててほしくないと思います。
羽田空港に到着後、搭乗手続きを済ませ、搭乗口へ進むと飛行機までバスで行く模様。
バスはバス内アナウンスでは約5分。(ってか、5分もない。)
そのバスの中で、ふと気付くとバスの前に、車椅子のマークのついた車を発見した。
(ぼくが乗っていたバスにはスロープ等がなく車椅子はもちろん乗れない。
バリアフリーが浸透しないと、分離、隔離されノーマライゼーションが浸透しないと思います。
この時点で羽田空港のノーマライゼーション度は低いですね。。。。)
そうして、飛行機の横に到着。
バスのアナウンスによると先にバスの前を走っていたその車の車椅子の方が
先に飛行機に乗るので、ぼくらのバスに乗っている人は
その方が乗るために待ってください、とのこと。
そのとき事件が起きた。
ぼくの後ろに乗っていたオヤジが愚痴りだしたのだ。
「ひとりで乗れないなら・・・(バカらしいので省略)」
「早くしろ」etc…
結局、待っていたのは5分くらい。
なぜ、そのオヤジはその時間を待てないのか。
その人が乗ったことによって、出発時間が遅くなるわけでもない。
日本にまだこんなことを考える人間がいるのかと、衝撃を受けたと共に
悲しい気持ちになりました。それまでの素敵な気分を害されました。
このくそオヤジは、自分がその方と同じ「障害」を持つようになったらどう思うのであろうか?
もしくは、絶対自分は同じ状況にならないとでも思っているのであろうか?
これを読んでくれた皆さん。
決してこんな大人にはならないでください。
そして、子供をこんなことしか考えられない大人に育てないでください。
ものがなくても、心の豊かさを。
ものがあっても、心の豊かさを忘れずに。

現代は、出会いは別れの始まり・・・・・ではない、ぼくの思い。

今日は、正月に大学に入って初めて正月に帰省するので
高校の時の友達に飲み会の連絡した時に思ったことを書きます。
ぼくは、過去の人の諺とか、知恵とかはすごいと思っている。
おばあちゃんの知恵は、現在でも使えるものはたくさんあるし、
諺だって、現在に示唆を与えるものばかりであると思う。
しかし、「出会いは別れの始まり」という言葉は、
出会った時から別れは始まっているという意味であるが、
別れを死と定義しなければ、現代では適さない言葉と思う。
昔は、卒業等で離れ離れになった場合は、相手を知る手段は
住所と固定電話番号でしかなかった。(他をあげるとすれば
人の噂、人伝いというのはありえるかもしれないが・・・。)
なので、その住所から引っ越してしまった場合は、たくさんの人に
引越し先を伝えるのは大変であるし、誰に伝えてよいのかもわからず、
ごく身近にいる人のみに引越し先等を知らせることになってしまい、
昔の友達等と音信不通になってしまうのであろう。
これが、「出会いは別れの始まり」の解明である。(笑)
しかし、今の時代を見るとどうだろう。
インターネットが普及し、住所、固定電話(むしろ携帯のみの人の方が多いのでは?)、
メールアドレス、メッセンジャー、IP電話、携帯電話、HP、blog等など
一昔前までは、2つしかなかった自分を知らせるものが、今では、8種類以上あるのだ。
しかも、住所や固定電話のように、引っ越したら番号等が
変わらないものが多数である。
メールであれば、一斉に送信することも簡単に可能であるし、
地域限定のプロバイダーでなければ、メルアドも変わらない。
つまり、現代は音信不通になかなかなり得ない時代であるのではないだろうか。
ぼくは、これらの音信不通になり得ないツールを「音信ツール」と呼ぼうと思う。(笑)
(おれのネーミングセンスの無さがばれてしまう!)
しかも、現代は遠くに離れていても、よく近く、頻繁に会話できるものもある。
IP電話、ビデオチャット、メッセンジャーなどなど。
最近の自分的なブームとしては、やはりメッセンジャーで、
大阪に引っ越した高校時代の友達とは、携帯番号、携帯メールを
知っている人よりも、メッセンジャーでよく会話をする。
用事がなくても連絡できて、簡単であるし、携帯みたいに
料金を心配する必要もない。
また、相手のオンラインの状況や「取り込み中」などの状態も
わかるため、話をしやすいもの理由の一つである。
メッセンジャーは、「つながっている」という意識が持てる
よいツールであると思う。
正月に帰省したら、高校の時の友達にメッセンジャーを
ぜひインストールしてもらおうと思っていた。
しかし、20人くらいに携帯メールで飲み会のお知らせを
伝えたのに返信があったのは、たったの7人である。
(7人中、3人は東京在住・汗)
しかも、高校の時の友達なのに7人しか返信が
なかったというのがなんとも寂しい。
ぼくは、今の生活がいかに楽しく、過ごしやすくても、
昔の友達をないがしろにしたり、関係を途切れさせたくないと思っている。
お互いの場所が離れたり、一緒にいる時間がなくなった場合は、
ぼくみたいに、相手とつながっていたいという思いが強くなければならないのかもしれない。
どんなにツールが発展しても、人の心までつなぎとめておくのは難しいのかもしれない。
しかし、現代の音信ツールは、その思いが強くなくても簡単に連絡が取り合えるツールである。
ぼくは、友達になった人とは縁を切らしたくないと思っている。
だから、これを見た友達(特に高校の時の友達!)は、現代の
音信ツールのアドレスや番号をぜひ、ぜひお知らせ願いたい。
特にPCアドレス、メッセンジャー(hotmail)は連絡がしやすいので
ぜひ、教えていただきたいと思う。
ぼくのメッセンジャー等の連絡先を返信します!
今、こんなにたくさん連絡ツールがあって、せっかく出会って
同じ時間をすごしたのに、音信不通になるなんて、寂しいでしょ!?

今日はおかんについて

今日は、昨日の親父に続きおかんについて書こうと思う。
おかんは、おそらく今、50くらいかな?親父と7つ違うからそれくらいだと思う。
何から書いたらいいかよくわかんないんだけど、とりあえずこれから書こう。
なんと言っても、料理がうまい!
おかんの料理がまずいと思ったことは一度もない。(なぜかカレーはうまくないんだけどね。苦笑)
あとは、う〜ん。色々ありすぎて何を書いていいやら。。。。
で、親父と同様おかんにも小学生の時から言われていた心に残っている言葉がある。(笑)
「出る杭は打たれる。出すぎた杭は打たれない。あんたは、出すぎなさい。」
それを意識してか意識せずかわかんないんだけど、やっぱりおれの中には
人と同じでは嫌だ。異彩を放つ人間になりたいとずっと思っている。
いくら歳をとっても、保守的にはなりたくないし、ずっとチャレンジャーであり続けたい。
そして、尊敬される大人、男になりたいと思っている。
そんな自分の基礎を作ってくれたのがこの言葉であるし、おかんの存在でもあったと思う。
親父にしろおかんにしろ、本人達は狙ってやっていたか定かではないが、
おれが小学生の時から、こういう言葉をおれに意識させて
社会が画一化から脱却し、個性を重んじることを重要視することを先読みしていたと
考えるとさすがとしか言いようがない。(ホントに狙ってたのかなぁ?)
この親があってのおれだと思う。
ホントに感謝している。
親子とは似るもんなんだと実感している。
でも、似てると言っても、おかんと一緒で下半身デブが似ているのは笑えないよ〜。(苦笑)