今日の日経の一面に「平成の名経営者」についてのアンケート調査の結果がありました。
<平成の名経営者>
1.カルロス・ゴーン(日産自動車)
2.奥田 碩(トヨタ自動車)
3.御手洗 冨士夫(キャノン)
4.鈴木 敏文(イトーヨーカ堂)
5.永守 重信(日本電産)
6.小倉 昌男(ヤマト運輸)
7.金川 千尋(信越化学工業)
8.武田 国男(武田製品工業)
9.盛田 昭夫(ソニー)
10.孫 正義(ソフトバンク)
ぼくの注目は大好きな経営者、日本電産の永守重信社長です。
人間を分けて考えるということ
ぼくの大学の学部に4年生で車椅子で学校に登校している人がいます。ぼくは直接知り合いではないんだけど、車椅子で学校に登校している人はその人しか見たことないし、ちょっとした有名人です。
で、友達からこんなことを聞いた。「その車椅子の人が企業に就職をしたいけど、『障害者』というくくりで採用されることがむかつくと言っていた。」と。本人とすれば、車椅子に乗っているだけで、他は他の人と何も遜色はない。企業側とすれば、障害者雇用促進法※があって、「障害」をもった人を雇用しなくてはいけない。そうすると、「障害」をもった人は当然「障害者」雇用になってしまう。「障害」をもった人の雇用を促進するための法で、自尊心を傷つけられている人もいる。なんと本末転倒か。そして、その雇用率さえ守られていない現状である。(しかも、障害をもった人を雇用すると給付金も与えられる。おかしな話である。)
それは何が原因かと考えれば、やはり人間を分けて考えるという観点があり社会的にもその風潮が認められているということでしょう。その風潮をなくしていくために、ぼくらができることというのは、ぼくがいつも言っていますが、まずは「障害者」という言葉をなくしていこう。ということ。
だから、ぼくは『「障害」のある人』と読んだり、書いたりしています。(それでも、嫌です。)しかし、世の中には、何と「障害者」という言葉が溢れていることか。「障害者」という言葉がなくなったときこそが、その社会風潮がなくなった時だしノーマライゼーション社会の実現だと思います。これを読んでくれた方々は、まずは、日々「障害者」という言葉を極力使わないように意識してほしいと思います。
※障害者雇用促進法:「障害」をもった人の雇用を促進するため常用就労者56人以上いる会社の事業者に対し「障害」をもった人の雇用率1.8%を義務付ける法律。現在の実雇用率は1.49%(平成13年度)である。その背景には、未達成企業も納付金という「お金さえ払えば、「障害」をもった人を雇用しなくてもいい」という感覚から抜けないからという会社もあれば、「どう雇えばいいかわからない。」という会社もあれば「その法律自体しらない。」という会社もある。
陥りやすいワナ
ぼくの友達がBlogでこんなことを言っていました。
私たち健常者は、健常者の観点のみから考えがちである。しかし、障害者の立場から考えたとき、その新たな方向性や利便性を発見することができる。
この発言はいいことを言っているようだが、非常に陥りやすいワナだと思っています。それは、以下の質問をするとよくわかる。
「障害者」というものの定義はなんですか?「健常者」というものの定義はなんですか?
「障害者」とは、「ハンディキャップ」を持った人、「健常者」は、「障害者」ではない人という定義をする人もいるかもしれない。でも、目が悪い人はどうでしょうか?これだって、一種の「障害」であって、メガネやコンタクトレンズがあるためにノーマルに生活できます。それと同じように「障害」をもった人にもサービスや支援を行なえば目が悪い人のように生活できるようになるのである。つまり、同じ人間なんだから明確な定義なんてないし、あってはならない。
ただ、必要なサービスを必要な人に提供すればいいのである。そこに「障害者」という定義付けは必要ない。しかも、法律でも「障害者」という定義付けはされていない。(法律でも定義付けはされていないが、「障害」をもった人に向けた政策等はある。その話はまた今度。)「障害者」、「健常者」という観点からものを考えようとする時点で新しい方向性や利便性なんて見つかりっこない。これが、ぼくが「障害者」という言葉をなくしたい理由であり、もっと考えていかなければいけない問題だと思います。
障害者という呼び方
カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル
http://blog.livedoor.jp/kaipapa2shin/archives/136116
「障害者」という呼び方について、うちのサイトのメンバーともよく話をするんですが、トラックバックさせていただいたBlogの方が「障害者」という言葉についてきれいにまとめて書かれていたのでトラックバックさせていただきました。
どういう風に彼らを呼ぶのがいいのでしょうか?トラックバックさせていただいたカイパパさんは、チャレンジドという言葉を使っていこうとおっしゃっています。うちのサイトでは、ノーマライゼーションが必要な人と言っているんだけど、それもどうなの?とメンバー間で言っています。
理想なのは、「障害者」とか「健常者」とか区別がない社会なんだけどやっぱり現状では人に説明するときは、そういう風に区別して説明しないと理解されない現状です。この議論は尽きないんだろうけど、ぼくの思いはやはり「障害者」という言葉をなくすこと。それは、「障害者」と呼ぶ人がいなくなる社会が達成したときこそノーマライゼーション社会の実現だし、「障害者」という言葉をなくすためには心のバリアフリーが必要だという信念があるからです。
心のバリアフリーをなくすためにこのサイトはあるし、自分達でできることはどんどんやっていこうと思います。(結局いつもそこに行き着くんだよな。)
ものの豊かさよりも心の豊かさを 〜ノーマライゼーションの実現〜
やべっち@鳥取県米子市です。
実家に帰省しました。今回の帰省は、久しぶりの人に会ったり、
高校の時の同級生に会ったり、スキーしたりとリラックスした時間を
過ごそうと思っています。
今日は、そんな素敵なことを考えながら、素敵な気分で、
実家へ向かう飛行機へ着々と歩みを進めていました。
しかし、飛行機の搭乗の際に、ありえない出来事があったので
皆さんにお伝えすると共に、これを読んでくれた人は必ずこんな大人には
なってほしくないし、こんな心の貧しい子供を育ててほしくないと思います。
羽田空港に到着後、搭乗手続きを済ませ、搭乗口へ進むと飛行機までバスで行く模様。
バスはバス内アナウンスでは約5分。(ってか、5分もない。)
そのバスの中で、ふと気付くとバスの前に、車椅子のマークのついた車を発見した。
(ぼくが乗っていたバスにはスロープ等がなく車椅子はもちろん乗れない。
バリアフリーが浸透しないと、分離、隔離されノーマライゼーションが浸透しないと思います。
この時点で羽田空港のノーマライゼーション度は低いですね。。。。)
そうして、飛行機の横に到着。
バスのアナウンスによると先にバスの前を走っていたその車の車椅子の方が
先に飛行機に乗るので、ぼくらのバスに乗っている人は
その方が乗るために待ってください、とのこと。
そのとき事件が起きた。
ぼくの後ろに乗っていたオヤジが愚痴りだしたのだ。
「ひとりで乗れないなら・・・(バカらしいので省略)」
「早くしろ」etc…
結局、待っていたのは5分くらい。
なぜ、そのオヤジはその時間を待てないのか。
その人が乗ったことによって、出発時間が遅くなるわけでもない。
日本にまだこんなことを考える人間がいるのかと、衝撃を受けたと共に
悲しい気持ちになりました。それまでの素敵な気分を害されました。
このくそオヤジは、自分がその方と同じ「障害」を持つようになったらどう思うのであろうか?
もしくは、絶対自分は同じ状況にならないとでも思っているのであろうか?
これを読んでくれた皆さん。
決してこんな大人にはならないでください。
そして、子供をこんなことしか考えられない大人に育てないでください。
ものがなくても、心の豊かさを。
ものがあっても、心の豊かさを忘れずに。